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はじめてのアルジェ

 遠藤昌雄
(財)中東経済研究所

 9月半ば過ぎにアルジェを初めて訪れて足掛け5日滞在しました。目的は経済改革関連の調査です。パリからのアルジェリア航空の昼過ぎの便は満席で、機体は古いものの、しっかりした食事が出ます。アルジェの空港に駐機している機体の大部分はアルジェリア航空ですが、民営のカリーファ航空の新しそうな機体やシリア航空機なども見えます。バスに乗り換えて着いた空港ターミナルの雰囲気は、何回か経験したアンカラの空港に似ています。

 空港から高速道路を走ると、煙が立ち上っている場所が目に入り、ゴミの集積場とのことです。アルジェ市のごみ処理についてはJICAの技術協力の対象になる可能性がある由です。ただし、現在の外務省の海外危険度のランクからするとJICAからの専門家の派遣は難しいので具体化はまだ先になる、といった話を伺ううちに、アルジェの西郊外の緑に囲まれた広大な敷地の海岸に面したホテルに着きます。プライベートビーチもあります。4年前のOAU首脳会議に合わせて建設されたというシェラトンホテルです。

 ホテルとアルジェ市内の訪問先との間の足として、大使館がステーションワゴンと運転手を用意してくださいました。また、助手席には毎回警備担当のアルジェリア人が同乗します。街の中を自分の足で自由に歩き回る機会はあまり持てません。車からアルジェ市内を見た限りでは街は平穏です。米国での同時多発テロから数日後で、アフガニスタン空爆はまだ始まっていない時期です。街の一角で行列ができているので同乗者に尋ねると、スペイン大使館でスペイン入国ビザを取ろうとしている人たちだそうで、ともかくEU内に入ったうえでその後フランスなどで働くことを考えている人が多いのだろうとのことです。ちょっとした交差点とか広場を通りかかると、平日の日中ですが、暇そうにしている男性(若い人も年輩の人も)をみかけます。雇用情勢の厳しさを示すものかもしれません。

(シェラトンホテルの窓からクラブ・デ・パンを望む、筆者撮影)


地中海に面した町として私が知るのは、アレキザンドリアとバルセロナくらいですが、アルジェの街は海に沿って東西の広がりが大きい点でアレキザンドリアに似ています。また、海岸通りに植民地時代以来の天井の高い立派な建物(今回のアルジェの訪問先の中では例えばアルジェリア商工会議所)が多い点も共通です。ただ、アルジェの街は想像以上に起伏に富んでいます。海岸通りを走っている時、あの丘の上の方がカスバだ、との話も聞きました。もっとも、カスバに足を踏み入れる機会は残念ながらありませんでした。

 アポイント先との面談が英語で済んだのは、予想よりは少な目でした。アポイント先が英語とフランス語の間を通訳する人を用意してくれた場合もあり、また、大方のアポイントに同行してくださったIさんに日本語とフランス語の間を通訳していただいた場合もありました。アルジェリア人がそれぞれの持ち場で経済改革を予想以上にまじめに考えて取り組もうとしている、というのが全体を通じての印象です。そういった意味で、向こう3ないし5年間の展開を期待したいと思います。

(車中から市内の住宅街を撮る)


 昼食にAURASSIホテルのレストランに入ったら、客が少ない割にウェイターが多いことに驚きましたが、時刻がやや早かったせいなのでしょう、その後客が相当に増えて、客の中には中国人らしいかなり大きなグループも見えます。同行したIさんと食べたエビやタイはとてもおいしく、やはり海のそばなんだと実感します。その席でのIさんのアルジェリアでは松茸がよく取れるとの話は興味深いものでした。(了)


約  束

萩原 宏章
(略歴:1933年長野市生まれ、東京都出身、都立西高卒、多摩美術大学美術学部卒。61年度フランス政府招聘給費留学生として渡仏、パリのエコールデボザール建築科及びポンゼショーセ国土整備開発科卒。フランスで設計活動。77年アルジェリア国土整備開発公庫(CADAT)入所。BLIDA市都市基本計画、MEDEA市都市基本計画責任担当、85年より99年末迄在アルジェリア日本国大使館職員勤務。2000年以降、趣味の絵画に専念。現在パリ在住)

(ガロロマンの水道)荻原 宏章)


 巴里の南郊外アルカイユ・カツシヤンにあるガロロマンの水道を二週間かけて油絵で写生したのは、フランスについて六ヶ月目の三月の上旬、大学都市の薩摩会館に住み、当時政府給費留学生として建築を勉強していた僕に四月頃留学生の展覧会をやるから出品せよと連絡があったからである。1962年新空港への自動車道路が大学都市のすぐ裏手に開通し、歩いてもすぐビエーヴルの渓谷を跨ぐ

 

高さ50メートル、長さ800メートルを越える水道に達する。その頃僕はマルセイユ迄の船旅で寄ったサイゴンで初めて見たソレックスを、巴里でその中古品を入手して乗り回していたが、連絡を受けて風景画を描こうと真先に浮かんだのがこの水道だった。
ソレックスのおかげで描く場所は、渓谷の右岸、水道の全景を望む巴里の方向を眺める高台で、自動車道路からはかなり引込んだ空地がよいと決めた。


学生生活は学生食堂を中心に展開するが、毎朝大学都市国際会館で新聞を一瞥し、午前の講義を巴里で聴き、昼食は大学都市かまた巴里の学生食堂を利用し、一度薩摩会館に戻ってから風景写生に出掛け、大学都市食堂が閉まらぬ前に戻るという日程がここに始まった。


  一週間が過ぎ、或る日突然真白いりんごの花が一斉に咲き、これを近景に描き加えた事、犬を連れた中年の男がほとんど毎日眺めに来ていたことが記憶に残っている。
 

あれは午前中だったか、講義がなく朝から描いていたように思うが、三人の青年が僕に向って近づいてきて「あなたは越南人か?」と質問した。「いや僕は日本人だ」「ああ日本人か日本は平和な良い国だ」とお世辞めいた挨拶をした一人に今度は僕が「君達はどこの国だ?」問い質した。


「僕等はアルジェリア人だ」「そうか、君達はアルジェリア人か、独立だな、良かったな、お芽出度」咄嗟に僕は三人に向き直ってこう言った。


  新聞は3月19日月曜12時を期して停戦決定したエヴィアン協定を大きく伝えていた。大東亜戦争と日本はいったが、その敗戦は少なくともアジアでの植民地主義に終止符を打った。その波は滔々とアジアから中東を経て今やアフリカに及んでいた。


  それから僕はこの三人乞われるまま絵の具を畳み青年達が宿泊しているフランス婦人の家へ一緒に行ったのだった。日本のことをもっと良く知りたいという三人に僕は日本の米英両国を相手の戦いとその底にあるアジア人の為のアジアについて語った。

確かガンジーの話しも出た。そして当然アフリカ人の為のアフリカが主題となり、新生アルジェリアの責任と連帯とが確認され、その為にも我々は勉強せねばと皆が言った。老フランス婦人は静かに耳を傾けていたが、僕が60年安保に触れた時、聴き耳を立てた。


  僕もこの三人も26、7の学生のくせにまるで自分の国を代表しているような口をきいた。僕がまだ学生で建築と都市計画を勉強している事を知った三人は屹度アルジェリアに来て呉れと念を押した。僕は卒業してから必ず行くと答え、今日我々が確認したことを忘れぬよう、日本人は約束を必ず守るから君達もそのつもりでいたまえと言って笑った。


  それから15年、僕はフランス政府公認建築家として又国土整備開発官として地中海を渡り、ブーメデイエンのアルジェリアに来、以後22年余をアルジェリア人と共に一喜一憂し乍ら生き、曲がりなりにも約束を果たそうと努力してきた。


  40年前に描いた風景画は僕の目の前にある。あの時の三人の青年には会えなかったが三人に宛ててこう叫んでみたい。


「おーい生きているか、約束を覚えているか、やるべき事はまだまだ沢山あるのだぞ、無駄な死に方をしてはいけないぞ」と。

 

(ガロロマンの水道)荻原 宏章)



砂漠とシャケ弁当(2)

小野照政
日揮(株)資源開発本部長

(編集部:本原稿はISEP〈石油開発情報センター)発行の「ISEPニュース」2001年12月号用に書かれたものであるが、著者及びISEPのご好意により本JOURNALに転載させていただくものである)

(オアシスに広がるガルダイアの町)


砂漠と日本文化が不思議なくらい合うと言う人がいる。
夕暮れちかい砂漠のなか、全く他には音のない世界で車のカセットから流れる演歌(演歌を日本文化ということには異論もあろうが)を聞いていると切ないくらいの哀愁を感じてしまう。因みにこれ以降すっかり演歌の虜になってしまい車での移動時には必ず演歌のテープを持って行ったものである。

もっとも、1976年にハッシ・ロンメルの現場を始めた頃はアルジェリア、特に南部には日本の製品は殆ど入っておらず、唯一、少数の日本製のエアコンを見かけただけであった。その後、このハッシ・ロンメルに日本人が住み始めて、車、電気製品は言うに及ばず食べ物も含め多くの日本製品がこの地に持ち込まれた。ゴルフ・バッグを抱えてくる人、砂漠だというのに何を思ったか釣竿を持ってきた人、更には現地産のものは品質が良くないとの理由でスーツケースにトイレット・ペーパーを入れてきた人までいた。
この結果、あっと言う間に現地人の間に日本製品の品質の良さが知れ渡り、日本製品を持つことは現地人の憧れとなった。


ハッシ・ロンメルから南に100キロ余の所にある世界遺産にもなっている有名なオアシスの町ガルダイアでは休日ともなると中心地に様々な生活用品を売る青空市場(通称"泥棒市")がたつが、そこではありとあらゆる日本製品が売られていた。我が社の社名の入ったヘルメット、作業服、そして現場の駐在員に支給していた安全靴、更には新品の日本製の工具。ある日この市場を見学に行った日本人が数日前になくした(盗られた?)自分のラジカセが売られていたのに唖然としたとの話も聞いた。どのようなルートでこの市場で売られていたかは敢えて言及はしないがとにかく驚くほどの品数であった。

(ハッシ・メサウードのエンジニア用住宅)


日本にいると得られない数々の経験と思い出をこの不毛の大地は私にもたらしてくれた。苦しい経験、にがい思い出が多かった中でも最も楽しい思い出の中に砂漠で食べたシャケ弁当がある。


砂漠の建設現場で魚貝類が食べられるのは非常に稀であるが、ある時現場を訪れた人が日本からはるばるシャケをお土産に持って来てくれた。このことだけでこの方は大変な人徳者という評判になった。


そしてこの貴重なシャケを現場からの移動時にシャケ弁当にし、途中の広大な砂漠の崖上に腰をおろし食したのだが、その塩のきいたシャケ弁当の味は今でも忘れられない。これぞ日本、日本の文化という思いであった。


とにかく、シャケ弁当は言うに及ばず、砂漠での最大の楽しみは食事である。約2500人の日本人がいたハッシ・ロンメルではご飯、味噌汁はあったもののとても日本食と呼べるような物ではなかった。従い楽しみは仲間内でこっそり楽しむラーメン或いはソーメンであった。特に40度を越す猛暑の中で食するソーメンの喉越しの爽快感は今でも思い出される。


個々の部屋での煮炊きは安全上の問題から固く禁じられていたため当初は電気コンロ等で遠慮がちに日本ソバ或いはソーメンを茹でていたが、その内、ザルやつゆ椀を日本から持ち込み、果ては部屋の外にネギ、青じそのたねを蒔き段々と本格的に且つ大胆に蕎麦屋を開業していった。


建設がピークを超え日本人の数も減ってくるとそれまで無国籍料理であった食事も本来の日本食と呼べるものになってきた。また時間の余裕も出来てきたことで、余暇に日本人は競って日本から持ち込んだ種で日本野菜の栽培を始めた。とにかく水さえ与えれば太陽には事欠かない所である、どの野菜も日本では想像できないようなスピードで育った。お陰で常に新鮮な日本の野菜を食することができた。新鮮な魚介類を食する機会は流石に少なかったが、それでも工事終了等のイベントがある時は地中海沿岸の町に冷凍車を送り直接漁師からマグロ、タイ、イセエビ等を購入し刺身、寿司、天ぷら等を食したものである。当初はそうした日本食を怪訝な顔で眺めていただけのアルジェリア人も回を重ねる毎に日本の食文化に慣れ、今では争って日本食を食べ、うかうかしていると刺身の残骸すら口に入ることがなくなる程になってしまった。海外で仕事を行う場合、技術的な交流も当然大事ではあるが、文化或いは食の交流も我々の考え方を現地の人達により良く理解してもらう意味で、また我々が彼らを理解する上で非常に重要なことである。


我が社のアルジェリアの現場もここ10数年ですっかり様変わりをしてしまった。かつては外国人と言えば大半が日本人であったが今では現場の駐在員の8割がフィリピン人である。従って日本人部落を形成する機会に恵まれることはないが代わりに今ではアルジェリアに居ながらにしてフィリピンの文化を知る機会に恵まれている。

かつては一人で車を運転し何処にでも自由に行き、誰とでも気軽に話すことのできたアルジェリアであるが、ここ10年近く政治的そして社会的問題に国も国民もそして我々外国人も巻き込まれ制限された中でプロジェクトを遂行せざるを得ない状況にあるが、一日も早くこの国が現在の混迷から抜け出し、以前の様に自由に何処にでも安全に車で移動できるようになり、また、砂漠で演歌を聞きながらシャケ弁当が楽しめる日が一日も早く来ることを祈るばかりである。

 


赤い砂の町・テミムーン

半谷辰郎、トミ子

 魅惑の惑星、テミムーンの町外れの赤い砂丘から、上弦の月が暮色に染まりかけた星空に昇りはじめる。さはらの赤い砂の町テミムーンに夕闇が訪れる。そして人通りが途切れる頃その町の全景を月明かりが照らし出す。更にナツメ椰子の梢が砂丘に陰を落とす頃、町全体がオトギの国に誘い込まれていくような錯覚を感じさせてくれる。
国道から外れ、テミムーンの町に入って来ると、赤い砂の大地に建つスーダン方式の大きな門が迎えてくれる。木造の建築用の足場に取り外すことなくその儘、門の装飾用に試用した儘の姿を見せている。門から赤い砂を材料にしたレンガの堀が、砂漠と町の境界線であろうか、高さ1メートル50せんち程積み上げられ町外れのかなたまで続いていた。境界線の外側にはさはらの民が永久の眠りについている広場がある。自然石が辛うじてその存在を示し、物陰一つない砂原で、さはらの酷暑ではさぞかし辛かろうと考えていた。

(町全体が赤。赤い砂の町、テミムーン)


赤い砂を材料にして天日で干し上げたレンガを積み重ねて造られた家屋は、ホテル、モスク、官庁、一般の住居総てが赤茶一色で統一されており、別名、さはらの赤い砂の町、テミムーンと言われている。ここに来て他の色彩を目にしたのは、官庁の屋上に翻るアルジェリアの国旗の青、白、赤の月星マーク、そしてナツメ椰子の緑のみであった。この赤い砂の町はさはら砂漠のほぼ中央にあり、何十万本と言われるナツメ椰子の林と共に、旅人の一時の安らぎと疲れを癒すオアシスとしてこの町を造り上げているようだ。
  この大さはらに数あるオアシスを、トアレグの男達が駱駝の隊商を率いて渡り歩き交易をしている。スリムで背が高く眼光鋭い男達は、その昔、さはらの盗賊と恐れられていたそうだが、意外にも砂漠の民、トアレグの血を受け継いでいるとは信じられない柔和な民である。
  町の中央に横幅30メートル、長さ2キロメートル程の広場があり、その先が車の行き交う事の出来る道路となり国道につながっている。この広場を囲むようにナツメ椰子の林

(モスクの祈りの塔)

が周囲に広がっている。そしてこの広場がこの町の唯一の繁華街になっており、その両側に住居、ホテル、官庁、モスクなどが並んでおり、軒先のナツメ椰子が木陰の恵みを与えていた。広場の中ほどに楕円の大きな噴水があり、中に駱駝をモチーフにしたコンクリート製の像が据えられていた。この噴水の水は、オアシスの清水から採水されイスラムの安息日には水が噴水されるそうだ。
  更にアラブの国には珍しく塵一つ落ちておらず、清潔な町の印象であった。特にモスクの周辺は入念に清掃されていた。ジェラバを着た年寄りが4人、5人と車座を作り、仲には10人程のグループがあちらこちらに出来て、何の話を話題にしているのか、時の経つのも構わずに話し込んでいた。夕餉を待ちわびる家族はいないのか、気になる光景であった。
  ATA(国営旅行社)直営のホテルも、最近更に1軒増え

(町中,メイン道路端の語らい)


たようだ。主殿がアルジェリアに来て始めてさはらの旅をした頃は、1軒のみの営業で、東洋の国日本からのお客人は初めてと言われたそうだ。ホテルの建築材料も赤レンガ造りで、オトギの国のお城を連想させるように、屋上には細い塔が何本も飾り付けられ、赤い砂のお城のように建てられていた。その入り口、庭、道路にはナツメ椰子が3本、5本と植えられており、さはらの魅惑の惑星の感じを持っていた。


  そしてこの町で見るナツメ椰子の林に沈む夕日と、林を照らし出す朝日は素晴らしく心に残る光景である。赤い建物に茜色が照り映え、町の赤さがその赤さを増し哀愁を呼び出す光景である。朱泥を流した西の空に、黒く長い尾を引くナツメ椰子、単身でこの光景と対面していると、沈み行く太陽と共にわが身も沈んで仕舞うような錯覚を覚える。


  黄金色から朱色に落日が変わる時、未だにその影を留め名残を惜しむ青空を序々におし包む暮色の光景は、さはら砂漠ならでは味わえぬ醍醐味である。東京のビルの谷間から見える夕日、田舎の社の森に沈む夕日、同じ夕日でありながら余りにも空間が広大なる所以か、偉大なる自然のパノラマであった。遠いアフリカのさはらでこのようなドラマに出会うとは感無量、日々の異国での不自由さもこの一瞬で、異邦人の私の胸から吹き飛んでしまった。


  そしてさはらの空に輝く星を大きく感じさせ、大きく見せてくれるのもここさはらの町テミムーンであった。故国の空では残念ながら見ることが出来ない大きな星を、心行くまで見せてもらい感無量である。遠く砂丘の頂を歩く駱駝の足許を照らす明かりが微かに揺れて見えていたのが印象的であった。


  ナツメ椰子の繁茂しているオアシスの水源には、名も知らぬ華麗な紫色の花が小さな花びらを蓄えていて、飲料水を汲みに来る人々の心の安らぎの源にもなっていた。過酷な生活条件の中で見た一服の清涼剤であった。そして、事願いが達せられれば、ここに住み、日本食を食し、日本で給料を頂き、夜毎星の王子様に逢う事ができ、宇宙のなせる技を共に眺める事を願うは私の我侭であろうか。

(テミムーンの朝、視界に入る大空は横に3つの雲の層が出来てこれが刻一刻とその様子を変えて行く、町と砂原の境界にて)


(遠い山の頂から顔を出す太陽、テミムーンは朝日より夜空に昇るお月さんが良く似合う町)


Madame Chibi



アルジェリアのNGO「アルジェリア人女性・発展協会」の活動

鷹木恵子
桜美林大学教授

 昨年の夏、チュニジアでの人類学の調査のあと、9年ぶりにアルジェリアを訪問した。
訪問の目は、最近、世界的にも注目されている貧困撲滅プログラム「マイクロクレジット Micro-Credit (無担保小規模融資)」(以下MC)のマグリブ諸国での広がりについて調べることであった。MCとは、もともとバングラデシュで1970年代にムハマド・ユヌス博士によって開始された、貧しい人々の経済的自立支援を目的とする、起業の資金を
無担保で融資する小口金融のことである。当初、チッタゴン州の小村で博士のポケットマネーで実験的に開始されたこの無担保小規模融資は、その後多くの貧しい人々、とりわけ女性たちの起業や経済的自立・自活へと繋がり、グラミン銀行として発展することとなった。MCはその後世界各地へも広がりをみせ、1997年にはワシントンでMC・サミットが開催され、その会議には世界137ヶ国から2900人が参加したという。

 市場主義経済のグローバル化が進み、貧富の格差が一層拡大しつつあるなか、MCはまさにその弱者に焦点をあてたボトムアップ政策として、アジアやアフリカ、ラ米などの各国から注目され、そこで応用実践されるようになっている。

 マグリブ三国でも、1990年代半ばには幾つかのNGOによってMC融資が開始され、1999年には、マグリブ三国でMCに関する法律も制定され、目下、国家としてもこれを推進しようとする機運にある。

昨年夏のアルジェリアの滞在は、10日間ほどの短いものであったが、その間にこのMC融資を実際に行っているNGOのひとつ、AFADを訪ね、その具体的な活動内容や実態を知ることができた。

 

AFAD(Association des Femmes Algeriennes pour le Developpement)は、アルジェリア人女性たちの連帯と発展、雇用の促進、教育開発などを目的とし、1996年にジャーナリストのMounira Haddad女史を中心として設立された女性の団体である。アンナバに本部があり、会員数は約1500人、アルジェリア12県に支部をもっている。 一般的にこの規模のNGOであれば、有償スタッフが数名いることが多いが、このNGOではスタッフのすべてがボランティアで、活動資金は会員の年会費(有職者500AD、主婦 200AD)とその他の寄付とで賄われているという。活動内容は、主に低所得者層の女性や子供たちを対象とし、物資面での支援(新学期前の学習カバンや文具の支給、ラマダーン中の食事支給)の他、職業訓練と就職の斡旋、教育開発、環境保護、低所得者層の子供のサマーキャンプや母親たちのエクスカーションの実施などで、実に幅が広く、多岐におよんでいるものである。またその活動を具体的に紹介してもらい、まず目を見張ったことは、単にその活動の多様さばかりで
なく、貧困層対象の情報教育のためにインターネットを導入したり、インターネット・カフェの開設計画、さらにまたMC融資など、開発援助プログラムとして国際水準に照らしてみても、実にその最先端をいくような活動を展開してきていることである。そのコンセプトも、単に慈善や福祉を目指すものではなく、あくまでも自助努力や自立を促そうとしている点に特徴がある。

 MCプロジェクトの開始にあたっては、ハッダードさん自らが、まずアンナバ旧市街のスラム地区でアンケート調査を行ったという。一軒、一軒の家を訪れて、そこの主婦や女性たちに、もし少額の融資が受けられたならば、どんな仕事をしたいか、あるいはできるかを尋ね、女性たちから自分の得意なやりたい仕事として、パン作り、お菓子作り、漬け物作り、レース編み、刺繍などの回答を得たことから、それらの女性たちに、オリエンテーションの後、実際に少額の融資を行い、商品を生産させ販売させるように支援をしてきているという。

なかには得意な仕事がないと答える女性もいたが、必ず何かできるはずだと考えさせ、清掃という答えを引き出し、融資金で清掃用具購入の後、実際にビルや学校の清掃の仕事を斡旋したこともあったという。しかし、女性の起業や経済活動支援の過程で大きな問題にぶつかったこともあったという。それは、多くの女性が商品を製造しても、それをうまく流通・商業化できずにいるという問題であった。そこで、ハッダードさんは、次に女性たちの手作り商品を売る特別市場「生産する女性の市場 Souk el-Mar'a el- Mountija」という市場を、アンナバ旧市街の中心に建てる計画を練り、私が訪問したときには、その秋の開設に向けて、工事が急ピッチに進んでいるところであった。その立派な市場の建設費用は、総額400万AD、日本円にして約640万円ほどとのことであった。しかもハッダードさんによれば、その資金はすべてアルジェリア人たちからの寄付で賄い、またその設計図もある設計事務所が無償で引き受けてくれたのだという。

 加えて、AFADはテロ未亡人や離婚によって路上生活を余儀なくされている女性や子供の収容施設「人類の家 ダール・インサニーヤ」も建設中で、その施設には会議場、宴会場、美容院、公衆浴場、コインランドリーなども付設されており、それらの経営で得た収入を施設運営資金に回すつもりであるとのことであった。AFADはまた、アルジェリア西南部ティンドフの西サハラ難民キャンプでも、難民の経済的自立支援のためのMC融資プロジェクトを開始しており、これについては国連高等弁務官事務所に調査報告を提出したところ資金援助を得られることになり、プロジェクトを拡大しつつあると話していた。

 これほど数々の活動をこのように各地で活発に展開していることに、話を聞いている方までが興奮して感心していると、ハッダードさんが「明日、私たちの本部事務所に来たら、あなたはきっともっと驚くでしょうね」と言った。

(MCの融資をえてお菓子屋を始めることになった女性と打ち合わせをするハッダードさん)

 その翌朝、私はその事務所を訪れた。それは、アンナバ市公民館の一階の角にあった。それは、日本で言えば、ちょうどたばこ屋さんくらいの広さしかないものだった。中には机と三脚の椅子、書類棚と電話しかなく、コンピューターなどもなかった。ハッダードさんは、「私たちには余計な資金などないのです。ですから、この程度の事務所しかありません。

でもこんな小さな事務所から、私たちは驚くべきほど沢山の仕事をしてきているということを、とても誇りに思っているのです」と語った。「そしてそれらの活動は、多くのアルジェリア人たちの善意と寛大さに支えられているのです」と付け加えた。

 AFADのエネルギッシュな活動ととそれを支えているアルジェリア人たちの熱い思いを知って、私は、日本ではアルジェリアについてはテロなどの暗いニュースが多かったなか、すっかり圧倒されながら、しかし同時にアルジェリアの未来は明るいことを信じたいと思った。


(事務所で女性の相談にのるハッダードさん)

そして日本としては、アルジェリアへの経済援助などが再開されたならば、単に大型経済開発プロジェクトなどばかりでなく、こうした地に足のついた、そして自助努力や自立を促す社会開発や人間開発へと繋がるようなプロジェクトこそを尊重し、また支援していくべきであろうとも考えていた。

AFAD (Associatioon des Femmes Algeriennes pour le Developpement)の連絡先
27 Rue Kissoum Hameida, 23000 Annaba, Algerie / 
B.P. 179 Annaba R.P., 23000, Algerie Tel: (213-8) 86 60 57/ 86 30 71
E-mail : afad-annnaba@yahoo.com

参考文献 M.ユヌス、A.ジョリ『ムハマド・ユヌス自伝』早川書店 1998年。