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ラハダル・ブラヒミ アフガン担当国連事務総長特別代表

ラハダル・ブラヒミ アフガン担当国連事務総長特別代表

 今、国際場裏で静かな注目を集めている人がいる。ラハダル・ブラヒミ、アフガニスタン担当国連事務総長特使(元アルジェリア外相)である。ターリバン政権が崩壊し、ビンラーデン征伐も時間の問題になった今、焦眉の急はアフガニスタンの平和と安定を達成しうるような体制をどう構築していくか、及び同国の復興問題になってきているが、このうち復興問題検討の前提となる前者の問題の任に当たっているのがブラヒミ特使である。

同特使は10月末よりパキスタン、イラン、サウディアラビア等関係国を訪問、11月9日、ニーヨークに戻るや13日には治安維持及び2年間にわたる5段階方式の新政府作りに関する報告書を国連安全保障理事会に提出、これが全メンバー国より全面的に支持された。
安保理はこれを受けて治安維持のための多国籍軍派遣に関する決議を全会一致で採択した。

受け皿体制作りに関しては、考え方の基本は"広い民族的基盤の上に立つ政府"であり、第1段階のアフガニスタン諸派の参加する準備会合をどこで開催するかが問題になっていたが、カブール開催を主張する北部同盟に対し、国連側は北部同盟の影響力拡大を避けるためアフガニスタン外での開催を譲らず、最終的にボンでの11月27日よりの開催が決まった。

ブラヒミ特使は,自らの国連PKOに関する経験と97年から2年間勤めたアフガニスタン特使としての経験、その他時間的財政的要素等も踏まえ、治安維持及び新政権作りの双方において、国連の役割をカンボディアやコソヴォ型ではなく、専ら裏方のお膳立て役に徹している。これは裏を返せば、国連が過重な任を背負い込まない、国連はうまく逃げたと言うことでもあろう。とは言え、国連がもっとも受け入れられやすい、かつ信頼されるまとめ役であることは疑いをいれず,いやが応でもブラヒミ特使のアフガニスタン問題に関する役割は今後ますます重要になるであろう。

なお、ブラヒミ氏は、「人間の安全保障に関する特別委員会」のメンバーでもあり、12月中旬、東京で開催される本委員会のキーノート・スピーカーとして来日の予定である。

略歴と活動実績
ブラヒミ特使は1934年、アルジェ後背地のメデア生まれ。1956年に創設されたアルジェリア・イスラム学生同盟創立メンバー、副委員長。
1963年駐エジプト大使
1971年駐英大使
1979-83年シャドリ大統領外交顧問
1984年アラブ連盟事務局次長
1991-92年ゴザリ首相の下で外務大臣
1998年アフガニスタン担当国連事務総長特別代表
アラブ関係ではレバノン内戦解決のための6者委員会委員長、ターイフ合意達成の功労者
また、アフリカ関係では南ア選挙監視国連代表

国際外交に長けたアルジェリア、人材の輩出
   この機会にアルジェリアの国際外交舞台での活躍について一言紹介しておきたい。アルジェリアの外交面での強さはアルジェリア独立戦争時までさかのぼり、1955年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ連帯会議で当時はまだそれほど知られていなかったアルジェリア独立戦争を提起し、それを同会議の議題に掲上することに成功したことに始まる。1958年9月成立のアルジェリア革命臨時政府はFLN海外事務所を通じてアルジェリア独立支援の国際世論作りに努め、特にその国連での活動には目覚しいものがあった。独立戦争の長期化に伴い、フランスによる独立運動の軍事的制圧がかなり功を奏していたが、軍事的には負けていたのを国連を中心とする国際的圧力でフランスを交渉の座に引き出し、エヴィアン協定締結までもっていった。(軍事的劣勢を外交でカバーしたと言われた)

  1971年には独立後もフランスが支配を継続していたアルジェリアの石油産業を国有化、産油国のメイジャー支配からの解放の動きに先鞭をつけた。
  1973年の第3次中東戦争を機にオイル・ショック発生、翌1974年アルジェリアの提唱で第4回国連特別総会(資源総会)が開催され、新国際経済秩序宣言が採択された。

 同年の国連総会ではブーテフリカ外相(現大統領)が37歳の若さで総会議長に就任、PLOへの国連オブザーバー・ステイタスの付与、及び南アの国連からの追放を実現した。

 また、1975年にはイラン・イラク国境を画定したシャットル・アラブ協定がアルジェで開催された非同盟首脳会議を機会に調印された(後にイラクがこれを一方的に破棄、イラン・イラク戦争勃発)。

 1979年のイランにおける米国大使館人質事件ではイラン・米間の仲介に入り、人質は80年1月アルジェリア航空にてアルジェに運ばれ、アルジェで解放された。

 ついでイラン・イラク戦争の仲介に入り(全てのアラブの国がイラク側についたのに対しアルジェリアが中立を守ったことがそれを可能にした)、1988年両国間で休戦協定が締結された。その間当時のアルジェリア・ベンヤヒア外相が乗った飛行機が両国国境地帯で撃墜され、アルジェリアは政府高官約10人を失った。

 1988年にはアルジェでパレスティナ国民評議会が開催され、パレスティナ国家の設立が宣言された。

 危機の10年の間は見るべき外交活動はないが、1999年ブーテフリカ大統領が誕生、翌年OAUサミットのアルジェ開催を機に国際外交舞台に復帰。OAU議長国としてエティオピア・エリトリア戦争解決のための仲介に入り、ブーテフリカ大統領自らシャトル外交を展開し、2000年、両国間平和条約がアルジェで調印された。

 また、かねてよりのリビアの提唱が実を結びOAUは明年よりAUに発展的に解消するが、ブーテフリカ大統領のカッダーフィ支援がなければこれは実現しなかったことである。

 「アルジェリアは国際社会の支援で独立を達成した、国際紛争の解決に尽力することで国際社会に恩返しをする。これはアルジェリアの国是である。」・・・・・かつて筆者がアルジェリアの政府高官から聞いた言葉である。