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テロ事件のむごい犠牲の報に20年前、アルジェリアで日揮の人たちが私たちにしてくれたことを思い返す

青木明美

■10人の方々が亡くなったアルジェリアのテロ事件。今回の事件が伝えられた時、20年前に女性5人でサハラをバイクで走っていた時に私が高熱を出し、日揮の天然ガスプラントに助けてもらったことが思い出され、当時の仲間に「20年前と何も変わってないんだね、人質の人達の無事を祈ろう」とメールしていました。

◆私が助けてもらったプラントは今回の事件のあったプラントとは違いましたが、現地の状況や日揮のエンジニアの様子がだいたいわかっていたので、報道ビザがおりないからカイロとパリとロンドンからの中継ばかりのTVを見ていて…マスコミも誰も想像もつかないだろうと思ったら書かずにいられませんでした。

◆何もない砂漠の真ん中に道路を敷き、キャンプ(居住棟)を作り、1からプラントを建設する…360度、砂だけ。町もない、酒もない。キャンプとプラントの往復だけ。修行僧のような暮らし。NHKのプロジェクトXどころじゃないです。中島みゆきを100人くらい呼んできて「地上の星」を合唱したいような現場でした。

◆私が旅していた20年前もイスラム原理主義のテロが頻発している時期でした。アルジェリアの人達はみんな親切で、道案内をしてくれたり、砂漠で水をわけてくれようとしたり、ホテルで盗難から守るためにバイクをホテルの建物に入れてくれたりしました。でもホテルの部屋にポリスが訪ねて来て、夜間は絶対に部屋から出るなと言われたり、食事をしたレストランで「先週、ここで外国人教師が撃たれて亡くなった」と聞かされたり、オアシスに入って出るまで、無言でポリスが警護(監視か)してくれたりもありました。

◆オアシスや町から離れても道路には軍の検問が結構あり、その都度パスポートをチェックされました。でも兵士達もとてもフレンドリーでパンク修理を手伝ってくれたりして、お礼にマルボロのタバコを渡そうとすると「そんなつもりはない。アルジェリアはいいところだろ? 気をつけて行くんだよ。いい旅を!」と言ってくれました。

◆そんな旅の途中、サハラの国道で夕方になってしまい、次のオアシスまで50キロ、熱40度で動けなくなり…野宿の支度をしていたらどこからともなく湧いて来た現地人が「ここで野宿は危険すぎる、そこの脇道を15キロ行ったらジャパニーズカンパニーがあるから助けてもらいなよ。お嬢ちゃん日本人なんだろ」と言いに来ました。

◆アルジェリアはアラビア語、旧宗主国 のフランス語を話す人はいたけど、ほとんどいない「英語使い」は泥棒かテロリストと思っていたので、まったく信用できません。何言ってんのこのオヤジ、こんな地図にも載ってないサハラ砂漠の真ん中、見渡す限り360度地平線まで砂漠なのにジャパニーズカンパニー?私もう熱で頭狂った?と思いました。

◆そんな寝言をとりあう気もありませんでしたが、野宿は強硬に阻止してきます。50キロ先のオアシスまでがんばれと言います。でもそんな体力は残っていませんでした。熱で震えが止まりません。とにかく横になりたかった。「だったら案内するから15キロ先のジャパニーズカンパニーに行こう」と譲りません。

◆15キロならなんとかがんばれる…ええいままよ!とそのオヤジの車について行くことに。国道から脇道に入って13キロくらい行っても地平線のかなたにも何もありません。15キロを過ぎ20キロを過ぎ…だんだんと先導するオヤジの車と車間が広がります。

◆「無いじゃん日本の会社なんて(苦笑)やっぱり誘拐?おいはぎ?どこに連れて行かれる?」ネガティブな事が頭の中をグルグル…荷物満載のバイク5台…みんなあんまりバイクのとりまわしが上手ではない…急なUターン(逃げる算段)なんて出来るかな…熱で朦朧とした頭で「私がオヤジを引きつけてみんなを逃がすには…それをバイクで走りながらどう伝えるか…」等々考えながら走り続けていると、蜃気楼みたいなものが見えてきました。そして…フレアスタック(煙突からガスがメラメラ燃えているやつ)が見えました。

◆「あーなんか油田?本当だったの?(まだ半信半疑)」…そのうち塀に囲まれた建造物のところまで来ました。そこに日本の工事現場にある日本語の看板「ご迷惑をおかけしております(ヘルメットかぶった人がペコリンしてるイラスト付き)」が掛かっていました。「あったよ!ほんとにジャパニーズカンパニーが!助かった!!」

◆涙が出ました。正門まで送ってくれたオヤジに沢山お礼を言って、施錠してある門から大声で叫びます。でもだれも応答はありません。門番もいません。塀の上には十字鉄線が張り巡らされていました。しかし(当時は)門と塀のわずかな隙間の部分だけ十字鉄線が途切れている所がありました。そこから一番小柄な仲間が一人、敷地内に侵入成功し、助けを求めました。

◆エンジニア(日本人)の方が最初に彼女を見つけ「なんだこの中国人は?」と思ったそうですが、いきなり日本語でそれも女で超びっくりしたそうです。(その時も思いましたが撃たれたりしなくて本当に良かった。) それが日揮の天然ガスプラントのキャンプでした。丁度、夕食時でみんな食堂棟にいて、叫んでもだれも気がつかなかったようです。

◆そして私たちに温かいシャワーとベッド、高熱を出していた私に日本の風邪薬に日本のカレー、ぎゅうひの入ったあんみつをふるまって下さいました。キャンプで体調を整えている間に、20年ぶりという豪雨が降り「サハラに嵐を呼ぶ女」と言われました。密造自家製ビールも沢山飲ませてくれました。

◆その後、快復した私は、所長(代理だったかも)に「アルジェの領事館に連絡する」と告げられました。旅が続けられなくなる…お願いだから見逃してほしい…1週間以内にどんなことをしても必ずモロッコに抜けるからと懇願しましたが「企業には邦人保護の義務があり、企業は領事館のバックアップがなければ、異国の地で仕事が立ち行かない…個人的には行かせてあげたいし、行かせてやれというエンジニアも沢山いるけど、事情をくんでほしい」と言われました。

◆実は「逃げちゃう?」なんて相談もしましたが、いきなり降ってわいた私たちにこれ以上ないくらい親切にして下さった恩をあだで返すわけにはいかないと、領事館の指示に従うことにしました。そして日揮は最善の安全策を講じてアルジェまで飛行機に乗せてくれ、バイクをトラックの手配して陸送までしてくれました。

◆アルジェでは、マルセイユ行きの船に乗れるまで面倒を見て下さいました。アルジェでは領事に「テロが頻発していて本当に危険なので、奥さんやお子さんがみんな帰国したのに常識が無さ過ぎる、あんたがたの死体を拾いに行きたくない」とこっぴどく叱られ、大使には「こんな危ない国に来ちゃいけないよ、早く帰んなさいね」と諭されました。

◆もちろんあの時、お世話になった日揮の方々は20年たっていますからほとんどがリタイヤされているとは思いますが、日本からはるか遠い砂漠の真ん中で、エンジニアたちの粛々と仕事に従事されていた姿を思いますと、今回の事件は本当にショックでつらい結果でした。

◆以前は一生懸命働いて、還暦過ぎたらまたゆっくりサハラに行こうと仲間と話していましたが、20年たっても変わらない…15年後にかわっているでしょうか。

◆犠牲者の方々のご冥福をお祈りします。✝

(地平線会議 http://www.chiheisen.net/
 「地平線通信」406号(2013年2月6日発行)より転載)